常識ってなに?普通って何?それは言ってる本人の単なる主観です。

世の中には「常識」っていうものがあります。
あなたは、この常識というもののおかしさに気づいているでしょうか?

カンがいい人は常識というものが実にあやふやなものだということに気づいているはずです。

常識とは、国語辞典で調べると

「健全な一般人が持っている、または持つべき普通の知識や思慮分別」

とされています。
けれども、何が健全で何が健全でないかを決めるのは一体誰なんでしょう?

さらに、もっとおかしいのは「共通して持っている、または持つべき」という点です。
持つべき、だなんて一体誰がそんなことを言っているんでしょう?

そして、極めつけが「普通の知識や思慮分別」という部分です。

「普通」というのは一体何のことなのか。

これほど曖昧で、無責任で、いい加減で、暴力的なものはありません。

「普通」とは自分勝手な主観や決めつけのこと

僕たちが暮らしている社会には「普通」があふれています。
普通という言葉は、たとえばこんなふうに使われます。

「普通に考えたらわかるだろ」

あなたも仕事や学校などで、上司や教師から言われた経験があるのではないでしょうか?

あまりにも当たり前のように使われる言葉ですし、とくに違和感を持っている人はそれほどいないかもしれません。

それどころか、あなた自身が人に対して「普通」という言葉を使っているかもしれませんね。
ところが、この普通という言葉にはとてつもない自己中心性と暴力性がひそんでいます。

あなたはそのことにお気づきでしょうか?

まず「普通」という言葉の意味についてよく考えてみてください。

「普通に考えたらわかるだろ」なんて言っている人の「普通」っていうのは、完全にその人の主観なんです。

よく考えてみると「普通」の基準なんてどこにもありません。
何が普通で何が普通じゃないかなんて誰も決められないんです。

あえて言えば、何が普通で何が普通でないかを決めているのは「普通」という言葉を使っている人のほかには誰もいないんですね。

たとえばこれは、まったく違う文化圏の人と比べればよくわかると思います。

あなたが日本人であれば、日本語であいさつしたり会話したりするのが「普通」ですよね。
人の家にお邪魔するときは玄関でクツを脱いで揃えておくのが「常識」です。

ところが、この「普通」とか「常識」はアメリカに行くとまったく事情が異なるのがおわかりかと思います。

日本語であいさつしたり会話したりするのは「普通じゃなくなる」わけです。
玄関でクツを脱いだりすれば、それはまさに「非常識」になってしまいます。

今のたとえ話は極端な話ですが、僕が言いたいのは「普通」とか「常識」なんてのは人によって変わるっていうことなんです。

たとえば、僕たちが普段飲んでいる水などもそうですね。

僕が普段飲んでいる水は、ペットボトルやウォーターサーバーなどの水です。
なぜなら水道水は臭くて飲めないし、汚い水道管を通ってきたものだと想像するととても口にできないからです。

しかし、ふだん水道水を飲んでいる人に言わせると、わざわざお金を払って水を買うなんて信じられないというんですね。
そんなもったいないことをするなんて「普通じゃない」と言うんです。

僕からすれば、水道水のような臭い水を飲めるなんて「普通じゃない」と言いたいところです。

おわかりでしょうか?

「普通の基準」なんてものは飲料水ひとつとっても人によって違うものなんです。

つまり、完全に個人の主観や決めつけでしかないということです。

そんなものを他人にふりかざして「常識」とか「普通」とかいうものを押し付けるのは、あまりに自己中心的で暴力的だと思いませんか?

常識や普通というものは争いのもと

「常識」や「普通」というものは争いのもとです。

なぜなら常識や普通というものを信じる人にとっては宇宙の真理であるかのごとく絶対的なものとなっているからです。

ところが実際には常識とか普通とかいうものは単なる個人の偏見でしかないわけですよね。

常識が単なる主観であることを認識していない人は、常識や普通というものが絶対的に正しいと信じています。
おのれが信じる常識が社会的に正しいと思っていて、それを守らないヤツは悪いヤツということになります。

だからこそ常識や普通とかいうものを振り回して、他人にそれを押し付けようとします。

「常識で考えたらわかるだろ」

とか

「普通に考えたらわかるだろ」

なんてことを言いながら自分の主観や偏見を「常識・普通」と言い換えて相手をねじふせようとするわけです。

しかし逆に、押し付けられたほうの人はその人なりの常識があって普通があるんですね。
ということは、この時点ですでに常識も普通も双方で食い違ってしまうわけです。

すると、ここに「対立」が生まれます。

そして、対立はやがて争いとなることも少なくありません。

争いともなればお互いの間の空気は最悪となり、人間関係がそこで切れてしまうこともあり得ます。

しかし、もとをただしてみると対立というものは常識の食い違いから起こっているわけです。言ってみれば人と人との偏見のぶつけ合いというわけです。

実に不毛だと思いませんか?

そんなことのために人間関係が壊れてしまうわけです。

僕はこんなことのために人間関係を壊したくないですし、人生の貴重な時間やエネルギーを費やしたくないと考えています。

だからこそ、まずは自分が常識を捨てることにしました。

まずは自分が常識や普通というものを捨てることで、対立や争いも減らすことができるのです。

常識を捨て、普通を捨てて世界をひろげる。

「普通」とか「常識」とかいうのは、個人の主観であり偏見でしかありません。

自分の主観や偏見というのは、別の言い方をするならば自分という狭い世界のなかで通用するルールだと言ってもいいでしょう。

今までの経験という狭い世界のなかで目の前のできごとをジャッジしてしまうわけです。

僕は経験を否定するわけではありませんが、今までの経験のみで物事を判断する人は思考が硬直してしまいがちです。
人はこうなってしまうと新しい物事に対して否定的になり、自分の経験にないことは拒否したり嫌悪感を抱いたりするようになるのです。

たとえばこれは、役所組織を例にしてみるとよくわかると思います。

役所というものは新しい物事に対して柔軟さがありませんよね。
基本的に前例主義であって、前例にないことには否定的です。

前例主義というのは、つまり今までの経験を基準にものごとを判断するというものですから、
新しいモノやサービスが出てきたときは制限をかけて規制しようとするのです。

たとえばドローンなんてそうですよね。

ラジコンサイズの無人航空機であるドローンは、きっといろいろなサービスに利用できることでしょう。
ネット通販最大手のアマゾンなどは、ドローンを使った配送サービスの実験をすでにはじめているほどです。

大きな可能性があるドローンですが、役所からみればそうではなかったようです。
少し問題が起こっただけであっという間に規制されてしまいました。

これはドローンがもつ将来の可能性よりも、今まで起こった問題、つまり経験のほうを重要視したのだと考えることができます。

また、ウーバーというタクシーをご存知でしょうか?

ウーバーは今までのタクシーとは違って、一般の人がマイカーでタクシーサービスを提供できるというものです。
ユーザーはスマホやタブレットで配車することができ、高品質なサービスを受けられることで話題になりました。

しかし、これが白タクであるとして早くも国土交通省によって規制されてしまったんですね。

このように新しいものを否定したり拒否したりするのが経験で判断するということなのです。

役所は社会の安定を維持するのがその役割ですから、それでもいいのかもしれません。

しかし、これが個人となると話は違ってきます。

今までの自分の経験だけで物事を判断し、新しいことを否定し、自分の殻に閉じこもっているような人が魅力的だと言えるでしょうか?

僕はとてもじゃないですが魅力的だとは思えないのです。

だから「常識」というものを捨てて、目の前のできごとをありのままの目線で見たいのです。そうすることで、今までの自分には無かったものをどんどん吸収していくことができます。

「常識」という偏見にとらわれずに行動することで、今まで得ることがなかった仲間や知識や財産を得ることもできます。

「常識」にとらわれずに日々を生きることで、本当に自分らしい生き方もできるようになるのです。

その先にあるのは、すべてが見たことのない新しい日々です。
まるで子どものころに戻ったような、毎日が新鮮な世界がひろがっています。

常識を捨てることは難しいことではありません。

高価な航空券もいりませんし、特別なスキルも必要ありません。

あなたが「常識」を捨てて自分を信じてあげる勇気をもつことだけです。